2019年9月1日

起床。とても嫌な夢を見た。

中学生の自分が、新学期、新しい運動靴を下駄箱に入れておくのだが、体育の時間、いつの間にかそれにイタズラされてボロボロにされる夢。妙なリアル感があり、怒りで起きてしまった。

 

小学生~中学生の頃、自分は、些細な事でいじめられていた。それを思い出した。

目と目の間が離れている容貌をからかわれたり、食べ物を咀嚼していると右の眼瞼が連動して動く事を笑われたり、何の前触れもなくペンケースを踏み付けられて破壊された事もあった。ランニングフォームを笑われた事もあった。あまりいい思い出ではない。

 

それでも、その様な場をしのぐ事ができたのは、絵を描く事ができたからだと思う。

普通科目や運動系では劣ったが、これだけはクラスの人間に負けなかった。なので季節のイベントになると自分の出番が多くなった。他に適任者がいなかったので消去法的に任命されていたのだが、それが後々進学の時に威力を発揮するのだから、結構バカにできない。

 

当時の担任が「オマエは学力で劣るかもしれないが、画力で進学できる可能性がある。なので推薦入試を受けてこい」と、進路相談の時に持ち掛けてきたのだった。当時の自分は周辺にどの様な学校があるのか、あまり情報を知らなかったので、絵を描いて評価してくれる学科のある高校を担任の方から教えてくれたのはありがたかった。その話に乗らないという選択はなかった。

 

推薦入試は一月の下旬に行われ、内申書と面接のみで選考されていた模様。自分は中学校でのイベントへの参加を積極的にアピールし、当時倍率7倍だった難関を無事に突破し、クラスの中では最も早く進学を決めた。一芸は身を助ける。身体的特徴をバカにされていた自分ではあるが、今度は自分が皆をバカにするターンがやって来た。当時から殆どの生徒が学習塾に通っており、毎朝塾で出題された問題の答え合わせを行っているのを横目に、自分は麻雀の本を読んでいた。中学生の頃に自分は麻雀の遊び方を覚えたのだ。そして、卒業式のステージに毎年飾られる巨大な絵を描く仕事を学校側から与えられ、殆どの授業をキャンセルする特権を得た。一人で美術室に篭って絵筆を走らせるのは実に爽快。しかも他の奴等は普通に授業を受けている。集団でいるより一人でいる事を当時から好んでいた事もあり、本当に充実していた中学3年生の三学期であった。

 

だけど、今は、殆ど「描く」という作業をしなくなった。

依頼があれば描くのだが、そんな事もほぼなくなった。絵を描く事よりも楽しいと思える事柄が多いというのが実情。模型は楽しい。読書もイイ。ランも楽しくなった。登山もこれからいいシーズンだ。絵を描く時間なんてない。

 

ただ、今は、「本当にそれでいいのか」と自問している。

例の放火事件で亡くなった自分の元部下は、もっと沢山描きたかった筈なんだ。もっと沢山の作品に関わりたかった筈なんだ。描く事が本当に好きな奴で、先日、5~6年前に自分宛てに送ってくれたメールを発見し、その文中にて『Free!』のオープニングで動画を担当したパートを教えてくれていた。そして文末に「今、本当に仕事が楽しいです!もっと沢山仕事したいです!」と書かれていて、とても複雑な感情が湧いてきた。

 

自分を救ってくれた「絵を描く」という行為を、このままないがしろにしていいのか?

今は街の小さなクリニックで働いているが、その前はゲーム会社でキャラクターを専門にグラフィックデザインの仕事をしていた。「絵を描く」という下地がなければできなかった職種だ。ここでも一芸に救われている。ソレ系の専門学校に通っていた訳でもなく、パソコンの電源の入れ方すら知らなかった自分ではあるが、それでも当時自分を採用してくれた上司は「画力」のみを評価してくださり、コンピュータの使い方を丁寧に指導していただき、何とか仕事ができてしまったという事実がある訳で。そんな自分を支えてくれた一芸を錆びさせるのは、自分自身を殺す事に繋がらないだろうか。どうなんだろう?

 

だから、たとえ今は面白いと感じなくても、描かないといけないのではないか。これは自分にとっては「義務」みたいなもので、これを行う事によってやれサイドビジネスに繋がるとか、収入が増えるとか、そんな事はどうでもよくて、やらないといけない事、継続しないといけない事なのではないかと。

 

「嫌な夢を見た」という不快感はあるのだけど、幼い頃の自分を思い出した事には意味があると思う。久し振りに鉛筆を握ってみるのも悪くはない選択だ。

 

これからホカオネオネ・クリフトン5を試すために、ランニングに出掛ける。今のところ天気は大丈夫っぽい。

 

…で、一時間半程度走って帰宅。

走り始めの印象はズームフライにとても似ている。マシュマロ感があるのはメーカーのサイトでも画像で紹介しているくらいだからアピールポイントなんだろうな、と。しかし反発力に劣るので、デュナミスと同様、やはり脚を使わされる。踵から着地してローリングする様に誘導する様なソールの形状をしているので、必然的に大腿伸筋群(腿の前側)を使わされるのもネガなポイント。走り方をやや強要される嫌いがある。回転数を一定に保つ事には長けているのだが、ストライドを伸ばそうと思って走ると全然伸びない。シューズの機能に頼って走ろうとすると泣きを見る。

 

しかし、そんなネガティブ要素も、ある程度コントロールしようと思うとポジティブな要素となるのがこのシューズのポイントだと思われる。シューズの機能を「使わない」様に走ると、上手く走れる。踵にクッションのボリュームが割かれているのだが、それを極力使わず、身体をやや前に傾けてフォアフットまたはミッドフット着地を意識して走るとストライドを伸ばせる。しかもクッションに頼らない走り…つまりは踵を強力に地面に着かない走りになるので、踵のクッションが適度に反発力を生み、それが推進力となって前に進む。ものすごく逆説的ではあるが、クリフトン5は「シューズの機能を使わずに走ると速く走れる」という、やや変態的なシューズだと言える。でもコレはあくまでも自分自身の感想なので「コレでないとダメなんだ!」という方々もいるのだと思う。

 

利点があるとすれば、ズームフライは最初にペースを上げ過ぎて、後半にスタミナが売り切れるという事態が結構頻発したのに対し、クリフトン5は最後までスタミナが切れる事がなかった。そして歩きやすい。これはデュナミス並みに歩きやすいと感じた。ズームフライは結構ヨレるのだが、クリフトン5は大丈夫。ソールの形状も歩くのには向いている。そして何故か登りが走りやすかった。これはトレイルランニングに強いメーカーならではの特徴なのではないか…と思った。オフセットが少ないのに登りでペースが極端に落ちる事はなかった。そしてコレが最も重要と言うか、他社ももっと気にしてくれると嬉しいのだけど、自分が購入したクリフトン5のカラーが蛍光っぽい黄色なのだけど、明らかに周囲への視認性が高そうなカラーデザインである事は、街中を走る上ではとても大切。デザインによる安全性能の高さというのは走る上での性能よりもある意味で優先されて然るべきポイント。つまり、それなりに美点のあるシューズであるというのが今のところの感想。何回か履いて走ればコツや美点がもっと浮かんでくると思う。

 

しかし、今の時点では、Onのシューズが自分としては走りやすいかな。あまり気を使わなくていいし、柔らか過ぎないのもいいのかもしれない。走り方を強要される事もなく、後半にペースを上げる事ができるのも嬉しい。Onのシューズは履いていないアイテムがウチの中に結構あるので、少しずつ楽しもうと思う。

 

買い物ついでに、コンビニにて国民年金国民健康保険の払い込みを済ませた。

どちらも破綻しているシステムだと考えているのは自分だけではあるまい。年金は最近になってかなり話題となっているが、ハッキリ言って信用できない。なので自衛手段を考えておく必要はある訳で。健康保険に関しても、どこも悪くない患者を受け入れている病院が多い事を考えれば、もの凄く不公平なシステムだと言わざるを得ない。毎日の様にやって来る患者(とは言いたくないな。「輩」だよ、「輩」)を見ていると、この国の医療行政は本当にバカバカしいものに思えてくる。本気で医療負担を減らしたければ、全国の医者と医療関係の会社の社員に『チャイナ・スタディー』を読んで欲しいわ。日本だけでなく、世界的にも医療や保健に関する行政はマッチポンプである事が理解されるであろう。

 

夜遅いけど、図書館で借りた岡本太郎の本を読んでいたら、走らないといけない気分になってきた。なので走る。