2020年1月27日

起床。寒い。雪、降るのかねえ?それなりの準備をしておく必要がありそうな。

 

今日はもう、コービー・ブライアントの事故死。これに尽きる。何なんだろう、この喪失感は。

 

特に好きなバスケットボール選手だった訳ではない。勿論、抜群に上手かったし、猛烈に強かった。それでも自分はあまり好きにはなれなかった。たぶん、ロサンゼルス・レイカーズだったからだろう。自分にとってレイカーズは、読売ジャイアンツと同じ臭いがしていたんだ。ドラフトで指名されたシャーロット・ホーネッツに行っていたら、お気に入りのプレイヤーになっていたかもしれない。確かブラデ・ディバッツとのトレードでレイカーズが獲得したんじゃなかったっけ。

 

それはともかく。今回の事件、アイルトン・セナが亡くなった時と同じ感覚がしているんだ。更に言えばマルコ・パンターニが亡くなった時とも感触が似ている。共通項は、自分が特に好きではないアスリート。しかしそのパフォーマンスは群を抜いており、誰もが認めるスーパースターである事。そして、好きなプレイヤーでもないのに、その喪失感がとんでもなく大きい事。三人とも、その競技を代表するアスリートであり、かつアイコンだった。アイドルでもあった。常に当たり前にいる存在だと思っていた。その「当たり前」の存在が突然いなくなる。想像以上に精神的ダメージが大きい。言うまでもないが、コービーは偉大だった。それはセナもそうだし、ピラータも同様。偉大な存在というのは、日常の風景になる。それは、突然なくなると、とても寂しい。

 

岡本太郎の著作を読んで、改めて「死」という現象を考える。考えている。昨年の京都アニメーションの放火事件で亡くした部下の事もそうだし、今回のコービーの事件に関してもそうだ。「死」は、思いがけないカタチでやって来る。そしてそれは、自分自身の身にもやって来る可能性があるという事。そうでなくても生きていれば確実に人は死ぬ。生きている間に自分は何ができるのだろう?生きている間にやっておきたい事は何なのか?そもそも自分は果たして生きていていいのだろうか?…様々な事柄を考えてしまう。自分が生きている間にできる事なんてたかが知れている。コービーや京都アニメーションの様な世界的な評価を得る事は不可能だろう。しかし岡本太郎は言う。「人に理解されたり、よろこばれようなんて思うな。むしろ認められないことを前提として、自分を猛烈につき出すんだ」と。この一文に自分は勇気をもらう。別に評価を得なくてもいい。ただ、いいかげんに生きてはダメだ。猛烈に生きろ…自分はその様に解釈している。コービーのプレーは猛烈だった。京アニのスタッフの方々も猛烈に制作に打ち込んだに違いない。そうでないと、あのクオリティは考えられない。つまりは、いつ死んでも悔いはないと言えるくらいに猛烈に生きる。これが現時点で自分の出せる「死」に対する姿勢の答えだ。

 

自分自身に勝つ事。それは対戦相手に勝つ事以上に大事な事。コービーはこれをやってのけた。やはり偉大だ。これだけ書いておいても、やっぱり好きなバスケットボール選手ではない。しかし、とても尊敬できる人間である。彼はバスケットボール選手である前に、一人の「人間」である。人間としてのコービーが、自分は大好きなんだ。ご冥福を祈ります。